2012年3月6日火曜日

「ONE PIECE」で人権教育


「ONE PIECE」で人権教育 生徒の心に大ヒット(←リンクで飛びます)

こんな記事が朝日新聞デジタルに載っていました。
ちょっと長いですが引用させて頂きます。


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■チョッパーは現代社会の誰のことか
「海へ出ろよ! お前の悩みなどいかに小せェことかよくわかる」
「本当に?」
1月末、柴島(くにじま)高校(大阪市東淀川区)であった2、3年合同の「世界の人権」の授業。やぶ医者のヒルルクと、ワンピースの主人公の一味でトナカイのチョッパーのやりとりが教室のスクリーンに映し出された。
生まれつき鼻が青いチョッパーはトナカイの仲間たちからいじめを受けていた。「ヒトヒトの実」という不思議な実を食べ「トナカイ人間」になるが、今度は人間から化け物扱いされ、銃撃される。その時、ヒルルクに助けられ、はぐれもの同士、心を通わすようになる。
「チョッパーはずっと孤独だったけど、ヒルルクという友達ができて、少しずつ自分を受け入れられるようになったんだ」。前川昭敏教諭(46)の話を生徒らは真剣な表情で聞いた。
前川教諭がワンピースを授業で初めて使ったのは2010年12月。ワンピースのアニメを長男と見ていた前川教諭は「生徒に差別や仲間の大切さを考えさせる教材になる」と感じた。それまで南アフリカのアパルトヘイトやアメリカの公民権運動を学んできた生徒らは「ワンピースにこんな見方が」と驚き、それぞれに思いをめぐらせた。
3年の重満(しげみつ)麻利さん(18)は「一度でも人からのけ者にされると、誰も信用できなくなり、恨むことしかできなくなる。でも、ヒルルクのような寄り添ってくれる人がいると、立ち直れるきっかけをつかめる」。3年の小坂幸知子さん(17)は「迫害を受けた人はその気持ちをずっと覚えている。その傷は他人には見えないし、分からないから難しい」。
チョッパーは現代社会の誰のことか――。前川教諭が生徒らに感想文を書かせると、「人種差別を受けた黒人」「路上生活を余儀なくされたホームレス」「障害者」「いじめを受けた人」などの記述がある中、「チョッパーは自分」と書いた男子生徒がいた。
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ここまで引用。 

うん。正直高校2年・3年でやる内容ではない気がするが、それは置いておこう。
先ず、私はこの教育に反対します。
いい加減で中途半端な人権教育など害にしかならないと考えるからです。


では、ここでいう「人権教育」とは何なのだろうか。
どういう教育が「人権教育」なのだろうか。
ここで改めて考えてみたい。

まず、《生まれつき鼻が青いチョッパーはトナカイの仲間たちからいじめを受けていた。》という部分には何ら人権問題は存しないことは明白である。

なぜなら、この時点でチョッパーは人間ではなく、1匹の動物であるからである。
そして、動物世界では弱肉強食という自然の摂理が妥当している。
そして、アルビノ等の変異種は、この自然の摂理によって排除される。
これを「差別」と評することは適切でなく、むしろ、自然界を人間の尺度で図ろうとする愚かな価値観であり有害であると言えよう(これは私の価値観ですが。)。

弱肉強食という美しさを「いじめ」と同等に評するこの教師こそが、一番の差別主義者ではあるまいか。



次に、《「ヒトヒトの実」という不思議な実を食べ「トナカイ人間」になるが、今度は人間から化け物扱いされ、銃撃される。》という部分に関してはどうか。

まず、チョッパーはあくまでも「トナカイ人間」であり、一般的に言う「人間」ではない。
とすれば、このトナカイ人間という存在に人権享有主体性が認められるのかどうかを先ず論じる必要がある。


しかしまぁ、ここではトナカイ人間にも人権享有主体性は認められるものと解しておこう。


次に、通常の人間同士であれば刑法が適用されるところ、人間-トナカイ人間という関係では刑法が適用されず、もってトナカイ人間への銃撃行為が処罰されないのだとしたら、それは「平等原則」に違反することになるが、この点はどうであろうか。


憲法14条はあくまでも、同一事情・同一条件の下では均等に扱うという「相対的平等」を保障しているに過ぎず、合理的な差別(=区別)は許容される。
そして、「トナカイ人間」であるチョッパーと、一般的な意味で言うところの「人間」との間には、身体的特徴のみならず様々な事実上の差異が存することから、異なった取り扱いをされるのは当然である。


もっとも、かかる取扱いの差異が「合理的な差別(=区別)」であると言えるか否かを検討しなければならない。
トナカイ人間であることを理由とした差別は、憲法14条1項後段列挙事由の「人種」(あるいは「社会的身分」)による差別であるから、その違憲審査基準は嚴格審査基準(目的が必要不可欠で手段が最小限度であるか否かという基準)となろう。

すると、トナカイ人間であることを理由に刑法が適用されず、もって「銃撃行為」が許されるとするような取扱いは、そもそも目的の必要性どころか合理性も認められないので、不合理な差別、つまり憲法14条違反となる。

(この点、居住区域等の制限程度なら、合理的な差別(=区別)として許容され得ると考えることも可能だろう。)




結局のところ何が言いたいかというと、
「差別」と「区別」をきちんと峻別し、「事実上の差異に基づく合理的な区別は憲法上認められる」ということをきちんと教えるべきだ、ということです。
そして、「差別」の反義語として「人権」という言葉を使うのを止めて頂きたいということです。


ナンデモカンデモ「差別」の一言で片付けようとするのは教育上宜しく無いと思います。
きちんと「これは非合理的な差別だからアウトなんだよ」ということを教えるべきです。
そしてその合理的か非合理的かの判断について生徒達と議論するべきです。


ただ単に「可哀相でしょ。」みたいな感情論で片付けてはいけないと思います。


確かに、人権の固有性とか不可侵性、普遍性なんかを教えたいっていう気持ちは分かりますし、それがとても重要であることも分かります。
しかし、「人権」という言葉をただ単に「差別」の反義語で捉えることは止めて頂きたいのです。




それから、冒頭の海へ出ろよ! お前の悩みなどいかに小せェことかよくわかる」という発言もかなり危険だと思います。
漫画のセリフならばそれはそれで気にならないですが、このセリフを「教育素材」とすることには明確に反対します。安易に耳あたりの良い(と感じる)セリフを「教育素材」とすることは有害であると考えます。


「差別的扱いを受けた」というチョッパーのこの悩みが、チョッパーの人格形成に深く関わるものであるならば、その悩みを「小さい」と評することは正にチョッパーの人格を否定することにつながります。


例えば、痴漢被害に遭われた方々はその記憶が一生残り、自己の人格形成に大きな影響を与えます。
にもかかわらず、その悩みを「そんなことでクヨクヨするなよ。前見て行こうぜ。」などと言われたら、その痴漢被害者はどう思うでしょうか。
「そうか、世の中にはもっとひどい差別で苦しんでいる人がいるもんね。私の受けた被害・差別なんて小さいよね。」と思う人が果たして存在するでしょうか。

私には到底そうは思えません。
こういったことを、この教員はこの授業でこの生徒達と一緒に考えているのでしょうか。



私はここで「漫画がダメだ」とか、「教育素材として適切でない」ということを言っているのではありません。ましてや漫画それ自体の意義を否定しているのでもありません。
(むしろ個人的には「寄生獣」なんかは早い時期に読んでおくべき必読書だと思っていますし。)

ここで問題なのは「漫画を教育素材とすること」ではなく、「教員の中途半端な人権教育」にあると言いたいのです。

漫画の世界と現実の世界とでは大きな隔たりがあることは事実です。
ですから、安易に漫画内の設定を「教育素材」として使ってほしくないのです。
「人権問題」をもっと身近で分かりやすい問題として理解してほしいという教員の気持ちは分からないでもないですが、「子供たちに人気だから」というだけの理由で安易に教育素材にしてほしくないのです。


以上から、
私は前川昭敏氏の教育方法は間違っていると思いますし、反対です。。


(*'-'*)。(*'-'*)。。







それでは皆さん、おやすみなさい。

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