2012年3月15日木曜日

憲法9条の解釈について。


3月13日(火)17時より、小沢一郎勉強会の第3回目「非常事態における危機管理と安全保障~憲法9条をめぐって」の模様がニコニコ生放送で生中継されたようだ。。

この小沢一郎勉強会、第1回目は拝聴させていただいたのだが、あまりの内容の薄さにびっくりしてそれ以降興味がなかった。
当然、第2回目の勉強会は見ていないし、そもそもその存在すら知らなかった。
しかし、第3回目の題目は「非常事態における危機管理と安全保障~憲法9条をめぐって」となっており、非常に興味深いトピックである。
よって、この第3回目は一応見ておこうと思っていたのだが、その時間は丁度大谷實先生の『刑法講義 総論』を読み込んでいたため、結局見ることは出来なかった。。
後に知ったのだが、どうやらニコニコ動画のプレミアム会員というのになれば、生放送でも録画しておけるらしいのである。

ま、入りませんけど。
毎月525円なんて大金はとてもじゃないが払えないですよ。
私はその525円で本を買ったほうが良いと判断しました。

で、話を戻しまして、「憲法9条」ですよ。
皆さん大好きな、あの「憲法9条」です(*'-'*)(*'-'*)。
(まぁ、、嫌いな方もおられるかとは思いますが。。)

昨日の小沢一郎勉強会を見ていないので、そこでどんな内容が展開されたのかは分かりませんが、「非常事態における危機管理と安全保障~憲法9条をめぐって」という題目が付いていることから、憲法9条と自衛権の関係自衛隊の合憲性という部分は話の中に出てきたと思われます。
といいますか、このタイトルでこのトピックを扱わなかったらそれはもうダメデスヨ。


そんなわけで、憲法9条の解釈について少しだけ私見を。

先ず、憲法9条の解釈は多岐に渡り、多くの学説が並存しています。
この多くの学説の中から、自分自身の価値観に合致したものを選択しようと思った場合、当然ながら、各学説が究極的に志向している「正義」(その学説を提唱・擁護している人(解釈者)の正義(価値観))を理解しなくてはならない。
逆に言えば、解釈の結果(結論)から、帰納的に、当該主張者の正義観(価値観)が把握できるということになる。

また、条文の解釈は、当該条文の趣旨に基づいて行われる必要がある。

以上のことを踏まえて、憲法9条の解釈について各学説を検討していこうと思います。


先ず、憲法9条の趣旨は「平和」にある。
憲法9条の趣旨、究極的な目的がここにあるという点については、もはや異論は無いであろう。
よって、この「平和」という趣旨に反するような解釈はそもそも間違いとなる。

しかし、この「平和」という概念がまた非常に厄介なものであり、人によって様々な意味を与えられているものだと思う。
《「平和」とはどういう状況を指すのか、そしてその状態を如何にして実現していくべきなのか》、この部分が人によって大きく異なるものと思われる。


1. 『自衛権』について。
先ず、この自衛権を憲法9条は放棄しているのか、留保しているのかで大きく意見が分かれているが、破壊的に単純化すれば以下のような価値観(正義観)の対立として把握できるのではないか。

【自衛権放棄説】:自衛権を放棄することによって「平和」を実現する(自衛権を放棄することで「平和」は実現できる)、という価値観(正義観)。 
【自衛権留保説】:自衛権を放棄しないことによって「平和」を実現する(自衛権を放棄したのでは「平和」は実現できない)、という価値観(正義観)。

先ず、名古屋高裁平成20年4月17日判決が、「憲法前文に『平和のうちに生存する権利』と表現される平和的生存権は、……現代において憲法の保障する基本的人権が平和の基盤なしには存立し得ないことからして、全ての基本的人権の基礎にあってその共有を可能ならしめる基底的権利であることができ」ると述べている点に注目したい。
この「憲法の保障する基本的人権が平和の基盤なしには存立し得ない」という考え方は、憲法9条の解釈を行う際にも大いに参考になるものだと思います。

つまり、基本的人権の確保をどんなに徹底しても、その主体である国民の生命身体の安全が確保されていなければ、もはや無意味であるということです。

この考え方に照らせば、国民の生命身体の安全を確保することが憲法の第一要請であり、その要請を実現するための手段・方策を憲法は認めているということになるはず。

そして、この要請を実現するための権利が「自衛権」であるのだと私は考えます。



2. では次に、『戦争放棄』というトピックについて。
1項・2項の文言解釈とかいろいろありますけど、結局のところ、「自衛戦争は『平和』構築のために必要なのか」という問題に帰着するのだと思います。
憲法9条の趣旨を完遂するために自衛戦争という手段が必要なのかということを考えたとき、私は、必要だと考えています。

日本国憲法は立憲的意味の憲法であり、自由の基礎法でありますから、日本国民の基本的人権を確保することを目的に作られたものであります。
しかし、いくら国民の基本的人権を確保したとしても、国民の生命が確保されていなければ、無意味です。人は死んでしまえば権利行使することが出来ないのですから。上記名古屋高裁判決に同旨(*'-'*)。

したがって、憲法の第一の目的は、国民の生命を守ることにあるものといえます。

とすれば、国民の生命に危機が差し迫っている場合に、その危機を除去する方策を採ることは、憲法上当然に認められるものといえます。危機を除去してはならないと解することは、憲法の根本理念を否定することと道義でありましょう。

もっとも、危機を除去する方策としては、多様なものが存在します。
◯カ国協議(会談)や経済制裁等の外交はその代表例でしょう。
勿論、この危機除去方法の1つとして「侵略戦争」は認められません。
では、「自衛戦争」はどうでしょうか。


確かに、自衛とは言え戦争ですから、相手国のみならず自国にも被害が出るでしょう。死者も出ます。これではもはや「平和」とは言えないとも思えます。
しかし、最悪の状況下、すなわち、もはや自衛戦争を行う以外には国民の生命の安全を確保できないという状況に陥ってしまったならば、最後の手段として自衛戦争は許容され得ると考えてはダメでしょうか。

外交等のあらゆる手段を用いてもなお危機的状況が解消されない場合、殺されそうになっている状況で、何もせず、黙って殺されるのを待つことが「平和」なのでしょうか。
国民の生命身体の安全を確保するという憲法の目的はどこにいってしまったのでしょうか。

勿論、自衛戦争と侵略戦争の区別はあいまいであり危険であるとの批判は理解できます。安易に自衛戦争を認めるべきではないでしょう。
当然ながら、自衛権行使の一態様である自衛戦争は、もっとも厳格に限定されなければなりません。
正直、現代社会においては、自衛戦争が許容され得る状況に陥ること自体を想定することは出来ないの“かも”しれません。
しかし、可能性として、そういった状況下に置かれてしまうことを想定することも決して出来ないわけではない“かも”しれません。


以上より、私は、基本的人権確保の前提として先ず国民の生命身体の安全を確保することが憲法の第一要請であると考え、究極的な状況下においては、自衛権行使の一態様として(=憲法の第一要請を実現する手段として)自衛戦争を行うことも許容され得るものと解します。


3. このように解した上で、『警察力・自衛力・戦力の区別』をどうするか、区別した上でどこまでが認められると解すべきかについてを少しだけ。。

国民の生命身体を守るために自衛権が認められ、その自衛権行使の一態様(最後の手段)として自衛戦争が認められるのだと考えた場合、「国民を守るための必要最小限度の装備(実力)」は当然に認められることになります。
とすれば、国民の生命身体を守るために本当に必要であるのならば、核兵器を保有することも認められますし、核保有をすることが必要最小限度といえないのならば、核保有は憲法上認められないこととなります。

したがって、「国民の生命身体を守るための必要最小限度の装備」に「核兵器保有」が含まれるのかについて徹底的に議論する必要があるのだと思います。
その際には、核兵器の「抑止力」をどの程度考慮するのかも重要となります。
また、この「抑止力」の内容としても、「他国の核兵器を使用し得るという状況に基づく抑止力」や、「核兵器を自国保有することに基づく抑止力」、あるいは「保有はしていないがすぐにでも核兵器を開発し得る状況にあるという抑止力」等々、様々なレベルの抑止力が存在するでしょう。
この様々なレベルの抑止力をどう組み合わせていくことが、国民の安全にとって必要なのか、細かく分析していくべきなのでしょう。
しかも、時代の変化に応じてこの抑止力の影響力は上下すると思われます。
この点私は......   (*'-'*)。(*'-'*)。。。

いずれにせよ、私は、憲法9条2項所定の「戦力」を「警察力を超える実力」と解する見解には賛成できません。(伊藤塾の講義ではこの学説をおすすめされましたが。)
理由は至極単純で、警察力だけでは国民の生命身体の安全を確保することが出来ないからです。
憲法が「国民の生命身体の安全の確保」を第一要請としているのに、その要請を実現できない解釈を採用することは私には出来ません。





今日の御飯は「ちゃーはん」です。
それでは皆さん、おやすみなさい。

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