2012年1月25日水曜日

『法解釈の正解』第6章  実質的解釈の危険性



本日、『法解釈の正解』を読み終わりました。

第一感想としては、やはり面白いということ。


そして...  これはアレだね。
今までの第1章~第5章は、この第6章に向けての前提知識を紹介・解説してくれているものだったのね。
勿論これまでの第1章〜第5章の内容はそれはそれでとっても大事なんだけど、この最終章がなければこの本は完成しないね。当たり前だけど。



では、昨日に続き本日も理解度自己確認用アウトプットをしていきます。


※下に書いているまとめは、私が勝手にまとめたもので、書籍からの引用ではないので注意してください。とはいいつつ要約する能力がないのでほとんど原文ママの部分多数...orz
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実質的解釈→対象そのものの意義(意味、価値観、個性、歴史といったもの)を排除(無視)し、解釈主体の持つ特定の価値観(とは言っても、純粋に個人的なものではなく、国民一般の規範意識であるが)に基づいてのみ対象を理解・解釈していくという態度。

ここは刑法で考えると分かりやすい。
刑法でいう実質的犯罪論(ex.前田 雅英(まえだ まさひで)教授)とは、構成要件該当性判断の際にこの実質的解釈をしていくという立場。すなわち、条文の文言を「処罰の合理性・必要性」という観点から解釈していく立場。
一方、形式的犯罪論(ex.大谷 實(おおや みのる)教授)とは、構成要件該当性判断の際は形式的解釈を行うという立場。すなわち、条文の文言を「文言そのものの意味(文言の社会通念上の意味)」として理解する立場。もっとも、形式的犯罪論においては構成要件該当性判断のステップ(=Tbレベル)の次ぎに来る、違法性阻却事由の有無を判断するステップ(=Rwレベル)において実質的解釈を行うので、形式的犯罪論とはいえ、形式的解釈のみで犯罪の成否を決するわけではない。
 ※また、社会通念上の意味は、処罰の合理性・必要性とは無関係に決まっていることに注意。


純粋に、法律を国民の一般的規範意識を基準に解釈(=実質的解釈)していけば、予見可能性は完全に担保され、罪刑法定主義は完全に達成される。

しかし、この実質的解釈には、大きな危険性を包含していることに気をつけなければならない。

実質的解釈とは、対象そのものの意義(ex.文言の社会通念上の意味)を無視し、主体の持つ特定の価値観(ex.処罰の合理性・必要性)から対象を理解・解釈するという立場である以上、この解釈態度は、『他者を無視・排除する』という方向性を持っているのである。

実質的解釈をするということは、解釈対象自体が有している価値観や個性、歴史といったものを捨象し、解釈主体の価値観を解釈対象に押し付けるということを意味する。

法律においてこれをみた場合、法律の文言自体が有している意味(=文言の社会通念上の意味)を捨象するということは、その文言を創り上げた立法府の意思を無視するということに他ならない。



そして、この実質的解釈は、それ自体普遍的なものではなく、一つの特殊な価値観に基づいた解釈であることを自覚することが大事。
実質的解釈とは国民の一般的規範意識に従って行われる解釈であるが、この「一般的規範意識」は決して絶対的な普遍性を持つものではないということ。
一般的規範意識に従った解釈(=実質的解釈)をするということは、一般的規範意識に反する人達の個性を無視し、一般的規範意識というものをその人達に押し付けることに他ならない(上述したように、実質的解釈は他者を無視・排除するという方向性を有しているのである。)。

例えば、「同性愛というものは異常である」という価値観が国民の一般的規範意識となっている社会において実質的解釈を行えば、同性愛者達はこの一般的規範意識を押し付けられ、同性愛者達自身の価値観や個性といったものは無視・排除されることになる。
(この例えは合ってるのかな...?? なんか的はずれな例えになってしまっている気が...orz とてつもない勘違い、思い違いをしていそうな気が...orz)

私達は一般的規範意識(社会の趣旨)に基づいた解釈(=実質的解釈)をして「正義」を実現しようとしているが、この一般的規範意識から漏れた価値観も存在するということを忘れてはいけない。その意味で、絶対的な普遍性を持った正義というのは存在しない。

したがって、この一般的規範意識から漏れた・はみ出た価値観の存在を認識し、一般的規範意識に取り込んでいくこと、つまり、はみ出た価値観をも包含する、“より一般的な”規範意識を創り上げていくことが求められる。

※実質的解釈が、一般的規範意識からはみ出た価値観を排除する方向性を持つからと言って、法解釈において実質的解釈が間違いであることにはならない。法律が「一般的・抽象的な法規範」であることを考えれば、法はやはり一般的規範意識に従った解釈を施されるべきであり、解釈態度としてはやはり実質的解釈が「正解」となろう。だからこそ、法とは普遍性を持つものではなく、あくまでも「一般性」を有するというだけのものであり、決して完全無欠なものではないということを自覚し、謙虚にならなければならない。それは「一般的規範意識」という特定の価値観による一面からの解釈に過ぎないということを自覚しなければならない。
したがって、社会は、自分たちの持つ一般的規範意識の中に、そこからはみ出た価値観を取り込んでいくよう自己改革していくことを望まなければならない。

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まとめ→『日本の法律は、あくまでも「日本」、「日本国憲法」という一つの価値観に基づいて創り上げられ、解釈されるものであるから、その価値観からはみ出る価値観の存在を認識していなければならない。一般的規範意識は普遍的なものでないのだから、謙虚であれ。』ということ。『この視点を忘れないでね。』というのが著者が本書第6章で言いたかったことなのかなと理解しています(今のところ.. orz)。



自分の理解にまったく自身が持てない... ^^;
体系として理解出来ていないですね。。

モットガンバリマス。






それでは皆さん、おやすみなさい。

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