2012年2月22日水曜日

国籍とアイデンティティの関係



猫ひろし氏とは... 一体どのような考え方の持ち主なのでしょう。。
私は彼を良く知らないもので。

「国籍変更」という非常に重要な問題に対し、彼は一体どういった答えを自分の中で見出したのでしょう。私には分かりません。(そもそも私には日本国籍を捨てるという選択肢を考えることが全く出来ません。たとえオリンピックに出れるとしても、たとえ司法試験に合格させてくれるとしても、国籍を捨てることは有り得ません。)

そして、彼はオリンピック出場が叶ったとして、その後どうするのでしょう。
日本国籍の再取得を求めるのでしょうか。
私は再取得なんて馬鹿げたことは認めないでほしい。
自分の判断で日本国籍を捨てたのだ。日本国籍を捨てたことによる負担は全て彼自身が自ら背負うべきものであり、むしろ、「日本国籍を捨てる」という彼の意思を最大限尊重すべきであろう(皮肉)。

では、日本国籍を再取得できないとして、彼はカンボジアへ移住するのでしょうか。
それとも、在日カンボジア人として日本に滞在し続けるのでしょうか。

そもそも、日本人がカンボジア代表になることの意味(意義)は何なのでしょうか。
何故オリンピックに出たいのでしょうか。



日本国籍を捨てるという選択、その選択によって自らの身に降り注ぐ有象無象の不利益。彼の今後の人生には少しだけ注目したいです。

もちろん、「国籍を捨てる」ことが、そのままイコールで「日本(母国)を捨てる」ことにはならないことは理解しています。「国籍」といういわゆる形式的なものがアイデンティティの構成要素になるとは限りませんし、世界中のどこにいても、日本人は日本人である、という意見も理解できます。
しかし、形式上ではあるものの、それでもやはり、彼はもはや日本人ではないのです。
形式的にではあるものの、彼は日本人であることを自分の意志で辞めたのです。


う〜ん・・・なかなか難しい。。
自らのアイデンティティの構成要素がどこにあるのか、国籍がアイデンティティに与える影響について、私は分かっていません。理解できていません。

ですから、安易に彼を非難することは出来ないはずなのです。
安易に非難出来ないはずなのですが、やはり、なんとなく、彼の国籍変更には違和感と嫌悪感を抱いてしまうのです。

この点、ラモス瑠偉氏のような国籍変更者にこのような感情は抱きません。

何故でしょうか。
おそらくではありますが、その理由は、私の目には「猫ひろし氏が『オリンピック出場の手段』として『国籍変更』を行ったのだ」と映っているからだと思います。多分。

国籍を取得するということは、その国の国民になるということ。
国民になるということは、その国の文化や歴史を受け入れるということ。(この点に異論反論がある方もおられるでしょうが、私個人はそう思っていますし、そう信じています。)

猫ひろし氏はカンボジアの文化や歴史をどう評価しているのでしょうか。
私には、「カンボジアが好きで好きでたまらない、私はカンボジアの国民になりたいんだ!!」というような意思を彼からは見出せない。はたから見ていると、あくまでもオリンピック出場のためだけに国籍変更しているように見える。その国の文化や歴史なんて知らんぷりの興味無しで、とにかく『オリンピック出場』ということしか頭にないように見えてしまう。こう見えてしまうからこそ、「もしかしてオリンピックが終わったら日本国籍を再取得するのでは??」などという邪推をしてしまうのである。

これはあくまでも私自身の独断と偏見ですから、実際に彼がどういう気持で、どういう意志を持って国籍変更をしたのかは分かりません。
カンボジアの文化や歴史を自らのアイデンティティの構成要素とするために国籍変更したのかもしれません。


しかし、もし万が一、オリンピック出場の道具として国籍変更を利用したのだとしたら、やっぱり私は彼を軽蔑するし、嫌悪すると思います。してしまうと思います。


まぁ、個人的には、そもそもオリンピック代表に選出されない方が「芸人」としては面白いですけどね。(むろん、芸人として出場するつもりは無いでしょうが)



それでは皆さん、おやすみなさい。

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