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どうやら、amazonが米国シアトルでリアル店舗を設立するらしい。
一方、ジュンク堂の新宿店は平成24年3月31日(土)をもって閉店。
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もちろん、新宿のジュンク堂は立地が糞だし、近くに紀伊國屋書店があるからこその撤退なのだろうが、個人的にはもの凄く残念である。
それはそうと、ネットショップ最大手であるamazonが実店舗を持とうとしているという動きには非常に興味をそそられるものがある。
結局のところ、『サービス』とは『つながり』であり、そのつながりは、単に物質的なものだけでは足りず、精神的な面でのつながりが必須なのだろう。
そして、現時点においては、実店舗を構えた方が、よりお客さんの精神面へ入り込みやすい環境をつくりやすいということなのだろう。
店舗の持つ(生み出す)『空間』が人の精神面へ与える影響力は凄まじいものがあるしね。
とすれば、たとえネットショップであっても、そのショッピング過程において精神的なつながりを感じさせることが出来るならそれで構わないし、逆に、たとえ実店舗を構えていても、精神的なつながりが感じさせられないのならそれはアウトということか。
そして、実店舗を構えていた既存店は、これまで、お客さんに対し精神的なつながりを実感させることが出来なかった。だから廃れていくのか。
確かに、せっかく実店舗を持っていて、精神的なつながりを構築できる機会を持っているにもかかわらず、何もしてこなかったのならば、廃れゆくのは至極当然だと思われる。
利便性という物質的側面においてはネットショップの方が優位なのだから。
本をただ陳列しているだけの空間からは、精神的なつながりは生まれない。
その本屋の意思が現れていないからね。
その本屋の意思を『空間』として表現しないとね。どういう意思を持っているのか、そしてその意思をどのように表現するのかは千差万別で、これこそがまさに個性の実現だと思うんだけどね...(・∀・)。
以前、自己実現=自己の個性を発揮すること、と書いたが、仮にこの思想に基づいて考えるならば、本屋経営者にとっては[本屋経営=自己の個性の発揮(=自己実現)]であるはず。
本屋を経営することで自己の正義(価値観)を実現しようとしているはず。
にもかかわらず、近所の本屋から、そういった個性や正義(価値観)は感じられない(私はね。)。
考えられる理由は、
①個性を『空間』として表現する努力を怠っている。
②個性を『空間』として表現する能力に乏しい(あるいは、無い。)。
③そもそも、本屋経営が自己実現となっていない。
の3つぐらいじゃないか。
もしそうだとすると、こういった本屋は潰れて然るべきだと思われる(私はね。)。
さて、これまで実店舗を構えているだけだった会社も、ネットショップを開設してきていますし、徐々にではありますが、電子書籍市場も広がってきていると思われます。
それでは、現実世界におけるこうした『空間』の価値を、仮想世界において実現することは可能なのでしょうか。。
今のところかなり難しいものがあるのかな(・_・)。
ひと昔前に話題になった(「マスメディアや広告代理店が話題にした」と表現したほうがより適切か)『セカンドライフ』は完全に失敗したと言っていいだろうし。
仮想世界において、現実世界でのような『空間』を作ることは可能なのだろうか。
『空間』への意味付けは、現実世界だからこそできる行為なのだろうか。
そもそも、現実世界の『空間』を仮想世界で求めることが妥当なのか。
現実世界の『空間』と仮想世界の『空間』とは全く別の特質を持っており、それぞれの空間に適した意味付けをすることが必要なのではないか。そうだとしたらその意味とは何なのか。
ARのように、現実世界と仮想世界とを組み合わせるという方向性は、現実世界・仮想世界それぞれに特有の『空間』の価値を損なわせることにはならないか。
本当に相乗効果はあるのか。
ぶっちゃけ、セカイカメラは失敗する(した)と思う。
理由は分からん(・∀・)。
手段がまずかっただけなのか、それともそもそもの思想・方向性がまずかったのか。
分からん(・∀・)。
法曹という天職を通して、人や神、仏、祖先、子孫とのつながりを形成できたら最高ですね。
それでは皆さん、おやすみなさい。