2012年1月24日火曜日

『法解釈の正解』第5章  実質的解釈とは何哉。



タイトル通り、『法解釈の正解』第5章についての理解度自己確認用アウトプットです。
まだ頭の中でまとまりきっていないので、ブツ切りで置いておきます。
完全にドラフトな状態です。しかも不正確です。
よって、本書を未読の状態でこの記事を読むと有害になりますのでご注意下さい。


※下に書いているまとめは、私が勝手にまとめたもので、書籍からの引用ではないので注意してください。とはいいつつ要約する能力がないのでほとんど原文ママの部分多数...orz
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人間は、自分の中に2つの法(基準)を持っている。
1つは、純粋に個人的な法。
もう1つは、自分が把握している社会の法。

両者が一致しているとき、社会が自己のアイデンティティの基礎となる。
逆に、一致していないときは疎外感を感じる。

ここでいう社会とは、変化するものであり、初めは「家族」、そして「学校」、「世の中」と変化していく(=社会が広がっていく)。
当然、社会の法も変化する。
社会の法が変化する度に、自己の個人的な法との不一致が生じる。

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民主主義の本質=徹底的な審議・討論。
採決や投票といった多数決的な決定手段は、どうやっても結論が出ない場合に行われる苦肉の策、仕方なく行われる最終手段である。

そして、この徹底的な審議・討論を通じて形成されるのが、国民の一般的規範意識。つまり、「社会の法」。  ※ちなみに、最終的に多数決によって形成された場合には、「多数派が普遍的妥当性を有すると考えている法」ということになる。

そして、その一般的規範意識をアウトプット、成文化したものが「法律」。

よって、その「法律」を解釈・適用する際の判断基準は、当然ながら「国民の一般的規範意識」ということになる。

同様に、国民一般が納得しない(=国民の一般的規範意識に反するような)法律はもはや「法律」とは呼べないし、国民一般が納得しない法解釈は間違った法解釈となる。なぜなら、法解釈の正解=法の趣旨に従った解釈であるところ、ここで言う「法」とは、まさに「社会の法」、すなわち「国民の一般的規範意識」であるのだから。

そして、国民の一般的規範意識がそのまま法律となっているならば、その法律は、まさに国民1人1人が自分で作りあげた法律であると言える。
これこそが、完全に理想的な意味での「治者と被治者との自同性」であり、「民主主義」である。
また、法律および法解釈が国民の一般的規範意識と一致したものであるならば、もはや予見可能性は完全に確保され、罪刑法定主義は完璧に達成される。

もちろん、これはあくまでも理想の姿。
でも、現実をいったん置いておいて、純粋な理想型がどうなっているのかを確認することは大切。

そして、上述したような、国民の一般的規範意識に基づいた解釈が、『実質的解釈』である。
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う〜ん・・・
う〜ん・・・
う〜ん・・・う〜ん・・・  orz...

いつものことながら己の地頭の弱さ、能力値の低さには唖然とするね。。
一般人なら余裕で一読了解できるだろうに。。


焦らずにじっくりと基礎体力を向上させていくしかないな。
いつになるかは分からないが、必ず、もう一度読む。
1回目の今回は、分からない所があっても先に進むことにします。


そんなこんなですっかりハマってしまい、この『法解釈の正解』という本、購入することにしました。今までは図書館で借りて読んでいたんですよね。


私の哲学についての知識・教養なんて本当に真っ白だし、法学の知識に関してもかなりいい加減なもんです。だから、この本、この著者の考えが正しいものなのかどうか、今の私にはまったく分かりません。。orz
ただ、手元に置いておきたいと感じました。
読んでいてとても面白い“気が”しました。
教養・能力不足の自分には、まだこの本が本当に面白い本なのか、それとも著者の話術によって面白く感じさせられているだけなのか、分かりません。。
これから先、カントやヘーゲルの著作も読んでみて、その他もろもろ多種多様な本を読んでみて、それからもう一度この本に戻って来たいと思います。
だいぶ先の話になるとは思いますが。。

そしてもう一度この本を読んでみたときに、この本の本質に迫れたなら、この本が本当に面白い本であると確信できたのなら、それはもう最高なのではないか。
その日を夢見て今日は寝ます。




それでは皆さん、おやすみなさい。

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