2012年3月8日木曜日

「女ごころ」とは何哉。



阪神百貨店が「ホワイトデー攻略ブック」なるものを宣伝しているのでちょっと覗いてみました。
(→詳しくはこちらからどうぞ)



「3.14楽しみにしてます♡」だそうです。



(左)「高いほうが良い」と言いつつ、一方で「高いのは重いからアウト」と言うのでしょう。確かに、ホワイトデーは贈与契約(片務契約)ですが、バレンタインデーとのセットであることを考えればむしろ双務契約と言ってもいいかもしれません。とすれば、「チョコ贈与」と「お返し」という双方の債務は対価的牽連関係にあるのが原則となります。よって、男性が行う「お返し」は女性が行う「チョコ贈与」と同じ価値であることが原則であり、男性側がより高価なお返しをすることはこの対価的牽連関係を破壊するものとして原則許されない行為でありましょう。男性諸君はこの対価的牽連関係の維持を徹底するよう努力いたしましょう(*'-'*)。

(右)「自分ではやりたくないこと」を他人に要求するのはやめましょう。



これは同意です。もっとも、ここで言う「センス」が「流行」を意味するのならば、そこに主体性は存しないので同意しかねます。仮にその人の主体性・個性(センス)が気に入らなくとも、華麗にスルーしましょう。この世の中には様々な価値観で満ち溢れています。これを機に自らの世界観を広げてみてはどうでしょう。
少なくとも、他人の価値観を「ダサい」、「センスが無い」の一言で弾圧することはやめましょう。



(左)当該男性が貴女にお返しをしたくない理由(orお返しできなかった理由)をまずは考えてみよう。相手の立場に立って物事を考えてみよう。もっとも、実質的には双務契約であることから、当該男性の行為は債務不履行となります。

(右)男性にチョコをあげるとき、貴女は相手の意思を確認していますか。一方的に贈与されて困るのは女性だけではありません。男性も「この女性からチョコを貰ったらちょっと気まずいんだけど…」と思うことがあります。「女性からチョコを貰って困る男性はいない」と考えているのなら、それは間違いです。
そして、たとえバレンタインデーにチョコを貰っていなくても、「日頃の感謝の気持ちを込めてホワイトデーにプレゼントしたい」と思う男性もいます。その好意を素直に受け取れるような人間になりましょう。たとえ嫌でも華麗にスルーしましょう。



頭の中で「エクササイズ用品=ダイエット用品」と自動変換した貴女は、ダイエットした方が良いと思います。太ってますよ。心のなかで「ダイエットした方がいいかも…」と思っている証拠ですから。
普通の人は「エクササイズ用品=エクササイズ用品」として認識します。



(左)これは同意です。たとえホールケーキを購入した場合でも、女性へ手渡す際には個別に切り分けた上で渡したほうが良いと思います。そのときに一言、日頃の感謝の気持ちを伝えれば良いと思います。

(右)リラックマが嫌いな人はこの世に存在しません(断言)。私はキイロイトリさんが一番好きですけど。



これにも同意です。下着は正直キツイ。これは男女共通の感覚でしょう。
個人的には、アンダーアーマーのピチピチスパッツくらいが限界です。女性の方ならアンダーアーマーでも嫌がるでしょうが。



自分で消費できない・消費したくない場合には家族や知り合いとシェアしましょう。

しかしここで注意しなければならないことは、
男性であっても、本当に感謝の気持ちや好意を伝えたい相手には、きちんと結果まで熟慮するということです。プレゼントをあげたことによる相手方女性のリアクション、感情をしっかり想定した上でプレゼントを選定します。

しかし、感謝の気持ちや好意を抱いていない場合には、ホワイトデーは単なる債務履行の場となり、「お返しをした」という行動そのもの(債務履行)に意義を見出すだけとなります。こうなってしまうと、プレゼントの内容もいい加減で、自己中心的なものとなります。

こう考えた場合、男性からの「お返し」は、貴女への評価を表していることになります。。

したがって、いい加減なものを送られた貴女は、当該男性にとっては評価の低い、「感謝」や「好意」を抱かれていない対象であることが判明したということです。
残念ながら。
(個人的には、ハムセットやステーキ肉、醤油などは貰って嬉しいですけどね)




上から順にヒトコト

「大きなぬいぐるみ」→貴女が可愛ければ、周りの乗客は「ほんわか(*'-'*)」します。貴女が可愛くなければ、周りの乗客は「イラッ(゚Д゚)」とします。それだけです。

「3ヶ月遅れ」→当該男性にとっての貴方への評価です。その程度の存在だということです。
もちろん、実質的には双務契約ですから、男性側の履行遅滞は許されませんが。

「大量にお酒をもらった」→貴女がお酒を飲めないのだとしたらそれは嫌がらせかもしれませんが、お酒が飲めるなら何も問題はありません。

「義理なのに」→やんわりと断れば済む話ですね。スルースキルを身に付けてください。

「賞味期限切れのお菓子」→当該男性にとっての貴方への評価です。
ただ、「女性としての賞味期限が切れている」ということを暗に知らせるための粋な計らいである可能性も捨てきれないところが恐ろしい。。そうでないことを願いますが。
(個人的には、32歳であればまだまだ余裕だと思いますが)

「マフラー」→良い対処方法だと思います。贈与されたからといった無理して身につける必要はありませんので。

「20人くらいからです」→その程度の存在なのです。

「ホールケーキ&カステラ」→贈与されたからといった無理して完食する必要はありません。

「ドレッシング重くて」→1本ずつ持ち帰れ馬鹿。

「買うのを忘れた」→その程度の存在なのです。

「お礼に食事でも」→貴女が当該男性から「食事に誘いたい」と思われているだけです。先ずは喜びましょう。そして、たとえ貴女にその気がなくても、相手の好意を受け取り、やんわりとスルーするスキルを身に付けてください。女子力ではなく人間力です。



(左)貴女が当該男性から「手作りチョコを贈りたい」と思われているだけです。先ずは喜びましょう。そして、たとえ貴女にその気がなくても、相手の好意を受け取り、やんわりとスルーするスキルを身に付けてください。女子力ではなく人間力です。

(右)太るのは自己責任。貴女自身が食べたいから食べたのです。贈与者のせいにしないで下さい。贈与されたからといった無理して完食する必要はありません。



貴女が当該男性から「きちんと気持ちを伝えたい」と思われているだけです。先ずは喜びましょう。そして、たとえ貴女にその気がなくても、相手の好意を受け取り、やんわりとスルーするスキルを身に付けてください。女子力ではなく人間力です。



(左)これも同意です。美容系は個人的趣向、肌質に大きく影響される分野なので避けるのが鉄則でしょう。

(右)同じく同意。サイズのある商品=身につける商品=個人的趣向が大きく反映されるもの、と言える場合が多いので、なるべく控えるべきではありましょう。



これまた同意ですね。ホワイトデーに限らず、バレンタインデーその他の贈与契約時も同様ですね。



これも同意(*'-'*)。
先ずは、貴女が当該男性から「きちんと気持ちを伝えたい」と思われていることに喜びましょう。貴女への評価は高いのだと思います。
もっとも、そのメッセージの内容、書き方に不備があるのはいただけません。
当該男性に常識や素養が備わっていないのでしょう。
もちろん、意図的にあえてそういった表現を使用している可能性は捨てきれませんが。。

常識が備わっていない男性からの評価に価値があるかどうかは分かりませんが、華麗にスルーしましょう(*'-'*)。


以上の「女ごころ」まとめ

で、「女ごころ」って何なんでしょうね(*'-'*)。
「女らしい心持ち」ってことでしょうか。

これって、ジェンダー論的にはどうなんですか・・・??
「社会的・文化的な(性別上の)気持ちのありよう」・・・??


上の「女ごころ」を見てみると、別に女性に限った話ではなく、男性にも当てはまるものですよね。
「女ごころ」というよりは「人間としての常識的感覚」という感じ…ですかね??




それでは皆さん、おやすみなさい。

2012年3月7日水曜日

青汁


昨日、生まれて初めて青汁を飲みました...


もの凄く...   不味かったです。

最近の青汁はごくごく飲めるようにいろいろ工夫していると思ったのですが、今回私が飲んだ青汁は糞まずかったです。
ビックリです。
未だにこんな不味い青汁を売っていることにビックリです。
芝生食ってるのかと勘違いしましたもん。

そして今日、その青汁の効能なのか、腹がぐるぐる...
腸の中が空っぽになるかと思った... orz

そして腹痛...



もう飲まない。。
(^_^;)




それでは皆さん、おやすみなさい。

2012年3月6日火曜日

「ONE PIECE」で人権教育


「ONE PIECE」で人権教育 生徒の心に大ヒット(←リンクで飛びます)

こんな記事が朝日新聞デジタルに載っていました。
ちょっと長いですが引用させて頂きます。


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■チョッパーは現代社会の誰のことか
「海へ出ろよ! お前の悩みなどいかに小せェことかよくわかる」
「本当に?」
1月末、柴島(くにじま)高校(大阪市東淀川区)であった2、3年合同の「世界の人権」の授業。やぶ医者のヒルルクと、ワンピースの主人公の一味でトナカイのチョッパーのやりとりが教室のスクリーンに映し出された。
生まれつき鼻が青いチョッパーはトナカイの仲間たちからいじめを受けていた。「ヒトヒトの実」という不思議な実を食べ「トナカイ人間」になるが、今度は人間から化け物扱いされ、銃撃される。その時、ヒルルクに助けられ、はぐれもの同士、心を通わすようになる。
「チョッパーはずっと孤独だったけど、ヒルルクという友達ができて、少しずつ自分を受け入れられるようになったんだ」。前川昭敏教諭(46)の話を生徒らは真剣な表情で聞いた。
前川教諭がワンピースを授業で初めて使ったのは2010年12月。ワンピースのアニメを長男と見ていた前川教諭は「生徒に差別や仲間の大切さを考えさせる教材になる」と感じた。それまで南アフリカのアパルトヘイトやアメリカの公民権運動を学んできた生徒らは「ワンピースにこんな見方が」と驚き、それぞれに思いをめぐらせた。
3年の重満(しげみつ)麻利さん(18)は「一度でも人からのけ者にされると、誰も信用できなくなり、恨むことしかできなくなる。でも、ヒルルクのような寄り添ってくれる人がいると、立ち直れるきっかけをつかめる」。3年の小坂幸知子さん(17)は「迫害を受けた人はその気持ちをずっと覚えている。その傷は他人には見えないし、分からないから難しい」。
チョッパーは現代社会の誰のことか――。前川教諭が生徒らに感想文を書かせると、「人種差別を受けた黒人」「路上生活を余儀なくされたホームレス」「障害者」「いじめを受けた人」などの記述がある中、「チョッパーは自分」と書いた男子生徒がいた。
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ここまで引用。 

うん。正直高校2年・3年でやる内容ではない気がするが、それは置いておこう。
先ず、私はこの教育に反対します。
いい加減で中途半端な人権教育など害にしかならないと考えるからです。


では、ここでいう「人権教育」とは何なのだろうか。
どういう教育が「人権教育」なのだろうか。
ここで改めて考えてみたい。

まず、《生まれつき鼻が青いチョッパーはトナカイの仲間たちからいじめを受けていた。》という部分には何ら人権問題は存しないことは明白である。

なぜなら、この時点でチョッパーは人間ではなく、1匹の動物であるからである。
そして、動物世界では弱肉強食という自然の摂理が妥当している。
そして、アルビノ等の変異種は、この自然の摂理によって排除される。
これを「差別」と評することは適切でなく、むしろ、自然界を人間の尺度で図ろうとする愚かな価値観であり有害であると言えよう(これは私の価値観ですが。)。

弱肉強食という美しさを「いじめ」と同等に評するこの教師こそが、一番の差別主義者ではあるまいか。



次に、《「ヒトヒトの実」という不思議な実を食べ「トナカイ人間」になるが、今度は人間から化け物扱いされ、銃撃される。》という部分に関してはどうか。

まず、チョッパーはあくまでも「トナカイ人間」であり、一般的に言う「人間」ではない。
とすれば、このトナカイ人間という存在に人権享有主体性が認められるのかどうかを先ず論じる必要がある。


しかしまぁ、ここではトナカイ人間にも人権享有主体性は認められるものと解しておこう。


次に、通常の人間同士であれば刑法が適用されるところ、人間-トナカイ人間という関係では刑法が適用されず、もってトナカイ人間への銃撃行為が処罰されないのだとしたら、それは「平等原則」に違反することになるが、この点はどうであろうか。


憲法14条はあくまでも、同一事情・同一条件の下では均等に扱うという「相対的平等」を保障しているに過ぎず、合理的な差別(=区別)は許容される。
そして、「トナカイ人間」であるチョッパーと、一般的な意味で言うところの「人間」との間には、身体的特徴のみならず様々な事実上の差異が存することから、異なった取り扱いをされるのは当然である。


もっとも、かかる取扱いの差異が「合理的な差別(=区別)」であると言えるか否かを検討しなければならない。
トナカイ人間であることを理由とした差別は、憲法14条1項後段列挙事由の「人種」(あるいは「社会的身分」)による差別であるから、その違憲審査基準は嚴格審査基準(目的が必要不可欠で手段が最小限度であるか否かという基準)となろう。

すると、トナカイ人間であることを理由に刑法が適用されず、もって「銃撃行為」が許されるとするような取扱いは、そもそも目的の必要性どころか合理性も認められないので、不合理な差別、つまり憲法14条違反となる。

(この点、居住区域等の制限程度なら、合理的な差別(=区別)として許容され得ると考えることも可能だろう。)




結局のところ何が言いたいかというと、
「差別」と「区別」をきちんと峻別し、「事実上の差異に基づく合理的な区別は憲法上認められる」ということをきちんと教えるべきだ、ということです。
そして、「差別」の反義語として「人権」という言葉を使うのを止めて頂きたいということです。


ナンデモカンデモ「差別」の一言で片付けようとするのは教育上宜しく無いと思います。
きちんと「これは非合理的な差別だからアウトなんだよ」ということを教えるべきです。
そしてその合理的か非合理的かの判断について生徒達と議論するべきです。


ただ単に「可哀相でしょ。」みたいな感情論で片付けてはいけないと思います。


確かに、人権の固有性とか不可侵性、普遍性なんかを教えたいっていう気持ちは分かりますし、それがとても重要であることも分かります。
しかし、「人権」という言葉をただ単に「差別」の反義語で捉えることは止めて頂きたいのです。




それから、冒頭の海へ出ろよ! お前の悩みなどいかに小せェことかよくわかる」という発言もかなり危険だと思います。
漫画のセリフならばそれはそれで気にならないですが、このセリフを「教育素材」とすることには明確に反対します。安易に耳あたりの良い(と感じる)セリフを「教育素材」とすることは有害であると考えます。


「差別的扱いを受けた」というチョッパーのこの悩みが、チョッパーの人格形成に深く関わるものであるならば、その悩みを「小さい」と評することは正にチョッパーの人格を否定することにつながります。


例えば、痴漢被害に遭われた方々はその記憶が一生残り、自己の人格形成に大きな影響を与えます。
にもかかわらず、その悩みを「そんなことでクヨクヨするなよ。前見て行こうぜ。」などと言われたら、その痴漢被害者はどう思うでしょうか。
「そうか、世の中にはもっとひどい差別で苦しんでいる人がいるもんね。私の受けた被害・差別なんて小さいよね。」と思う人が果たして存在するでしょうか。

私には到底そうは思えません。
こういったことを、この教員はこの授業でこの生徒達と一緒に考えているのでしょうか。



私はここで「漫画がダメだ」とか、「教育素材として適切でない」ということを言っているのではありません。ましてや漫画それ自体の意義を否定しているのでもありません。
(むしろ個人的には「寄生獣」なんかは早い時期に読んでおくべき必読書だと思っていますし。)

ここで問題なのは「漫画を教育素材とすること」ではなく、「教員の中途半端な人権教育」にあると言いたいのです。

漫画の世界と現実の世界とでは大きな隔たりがあることは事実です。
ですから、安易に漫画内の設定を「教育素材」として使ってほしくないのです。
「人権問題」をもっと身近で分かりやすい問題として理解してほしいという教員の気持ちは分からないでもないですが、「子供たちに人気だから」というだけの理由で安易に教育素材にしてほしくないのです。


以上から、
私は前川昭敏氏の教育方法は間違っていると思いますし、反対です。。


(*'-'*)。(*'-'*)。。







それでは皆さん、おやすみなさい。