2012年3月14日水曜日

「ネットショッピング」〜「忘れられる権利」


基本書は値段が高いので、Amazonで中古があれば中古で購入したりしているのですが、その時の厄介な文言が非常に気になります。


その文言とは、これ。

【※商品チェックには十分注意を払っておりますが、線引き等の見落としがある場合は何卒ご了承下さい。】

【※ノークレーム・ノーリターンで宜しくお願いします。】


...... orz
馬鹿だろ。ぶっちゃけ。
これホントにどうにかしてほしいです。。

ノークレーム・ノーリターンとかいう条件付けられたらもはや「可」とか「良い」とかで品質基準を設けている意味が無いじゃん!!!
Amazon側で明確な「可」「良い」「非常に良い」「ほぼ新品」の基準を策定し、販売業者に徹底させてもらいたい。
「非常に良い」なのに届いた商品に書き込みや折れ跡があったときには泣きそうになりましたね。

こちらとしては「非常に良い」という品質評価がなされているからこそ、「良い」評価の商品よりも高いお金を出して購入しているのに・・・


でもまぁ... こういった魔法の呪文を唱えておかないと、本当は書き込みがなかったのに背信的悪意をもってクレームを付ける購入者も出てきてしまうので、仕様がないんでしょう。。。

しかし一方で、このノークレーム・ノーリターンという魔法の呪文を利用して騙す販売業者も存在するわけで。。。

前者の「見落としがある場合は何卒ご了承下さい」ってのも、購入者側からすれば、店側が完全に逃げているだけのように思えるんだよね。
だって店側自身が「見落とし」という過失を認めてしまってるんだし。。
こちらとしては「いや、見落とすなよ」とツッコミたいわけで。。

いや、でも、本当に小さな書き込みまで完璧に見落とさないようにするのはほとんど不可能だろうからやっぱり致し方無いのかなとも思ったり。。



う〜ん・・・(*'-'*)。(*'-'*)。。
結局、こういうリスクを承知できる人だけが中古のネットショッピングできるってことですかね。。
それが契約ってもんですものね。。

ただ、そう考えると、インターネット上での「忘れられる権利」はどうなのかなぁ・・・と頭をかしげてしまう。
インターネットだって、「自分自身で発信した情報はあっという間に全世界へ拡散し、その情報はもう一生消えないよ」というリスクを承知できる人だけが利用出来るものでしょう??(仮に、そうしたリスクを考えずに利用している人がいるのならば、そういった人達はそもそもインターネットを利用するべきではないと思う。パターナリズム的だけど。子供に対して行われるフィルタリングみたいな感じで、インターネットからの情報収集だけが可能で、情報発信は不可というようなフィルタリングが必要なんじゃないかとさえ思えてくる。。)


ネットショッピングでの「ノークレーム・ノーリターン」と何が違うのでしょうか??
どちらも同じく、【自己責任】で片付けてはいけないのでしょうか。


確かに、ネットショッピングによるリスクはある程度予想できるし限度もある(だろうと思う。)。
一方でインターネット利用は、ネット利用者にそのリスクの大きさが予想できず限界もない(といえるかもしれない。)。
こういった違いから、ネットショッピングは【自己責任】で片付けることが許され、インターネット利用についてはそうではないという議論が生まれているのかもしれない。

しかし、やはり私としては、インターネット利用に伴うそうしたリスクの大きさ(「リスクが無限定・無限界である」という危険性)を把握することがインターネット利用の最低条件であるように思えてしまう。

今のところ、私の頭の中では「インターネットというオープンな場に自らの意思で情報を発信(公開)した以上、その自分の行為から発生するリスクは自分が負うべき」という考えが支配的なのです。。(*'-'*)(*'-'*)(*'-'*)。。

ですから、そういった大なり小なりもろもろのリスクを負えると判断した方が自分の判断で自由に自らの個人情報を発信すればよいのであって、そうでない方は情報収集や限定的な情報発信に留めておけばよいのだと思います。
こうした判断ができること、自分に合った利用方法を見つけることができる能力こそが、まさに『情報リテラシー』というやつなのではないでしょうか。


あ。
そういえばAmazonの中古で購入した本が今日届きました。
状態はすこぶる良好でした(*'-'*)。
ただ、エアパッキンで包んで配送してほしかったです。。配達のお兄ちゃんがガサツにPostへ突っ込む場合があるので、傷が付いてしまうんですよね。。


ん…??  それならいっその事、Postをエアパッキン加工してしまったほうが良いかもしれん。。
むむむ…これは良いアイデアかもしれん。。。
早速明日実行するか。。(*'-'*)。(*'-'*)。





今日の御飯は「ちゃんぽん」です。
それでは皆さん、おやすみなさい。

2012年3月13日火曜日

The Right to Be Forgotten -忘れられる権利-


The Right to Be Forgotten -忘れられる権利-
        →→ GIZMODOの記事参照 (*'-'*)。


どど〜ん!!
なんだかどっかの映画タイトルにありそうな感じですけど(*'-'*)、
これは非常に興味深い問題です。

「知る」という行為と「表現する」という行為の相互関係を深く考えさせられます。


さて、GIZMODOの記事において非常に気になった部分を少しピックアップ(*'-'*)。

“ヨーロッパの忘れられる権利では、他人がアップした自分の情報(嘘のない事実の情報)=パート3も、自分がアップした自分の情報=パート1も「個人に関する情報」というくくりで、同等に扱われている。”

私はこの考え方には反対です。
「自分の意志で発信した個人情報」と「他人が勝手に発信した個人情報」とでは、明確に異なるというのが私の考えです。
それがたとえどちらも「個人情報」であったとしてもです。

自己の意思に基づかずに公開された情報であるならば、忘れられる権利という名の削除請求も可能でしょう。
もちろん、『宴のあと事件』や『北方ジャーナル事件』等で示された要件が満たされれば、表現の自由が優先され得ますが。

しかし、自己の意思に基づいて公開した情報であるならば、もはや削除を法的に強制させることは出来無いのではないでしょうか。

(※ちなみに、インターネットのホームページは、不特定の者がアクセスできる点で通信内容に秘匿性が認められず、捜査機関が令状なくしてアクセスしても「通信の秘密」(憲法21条2項後段)を害しません。)


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【仮想事例】
 2012年3月13日、Xはtwitter上で「今日学校のテストでカンニングしてやったわ」という発言をした。
 この発言を発見したAは、当該X発言をリツイートしまくり、拡散させた。
 そのリツイートにより炎上。
 その炎上をきっかけにBはXの過去ツイートをしらみ潰しに調べ上げたところ、過去にX自身が所属学校、所属サークル、バイト先についての情報を公開していたことを発見した。Bはその情報をまとめ、拡散させた。
 Cは@wiki等のまとめサイトを利用し、これまでに集まったXの情報を一元的に管理・閲覧できるサイトを設立した。
 当該まとめサイトに掲載されていた所属学校・所属サークルと同じ学校・サークルに所属しているDは、バイト先情報やXの過去のツイート等から、Xの本名が◯◯であるとの確信を得た。Dは当該まとめサイトに対しXの本名が◯◯であることを伝えた。
 その結果、まとめサイトにはXの本名が掲載されるに至った。
 この炎上騒ぎを知ったXは、すぐさま自己のtwitterアカウントを削除した。
 また、Xは当該まとめサイトに対して、自己に関する情報の全てを削除するようにとの請求を行った。

 さて、Xがこういった削除請求をした場合、「法律によって」この請求に強制力を持たせることが出来るのでしょうか(*'-'*)。そういった法律が制定された場合、当該法律の合憲性について述べよ。(5点)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


まず思い浮かぶのは、この「忘れられる権利」を「プライバシー権」の一内容と捉える方向ですね。プライバシー権の社会権(請求権)的側面を重視する方向性。

しかし、プライバシー権の一内容と捉えるのには違和感が残ります。
何故なら、【裁判例】でも【有力学説】でも、プライバシー権の定義には当てはまらないと考えるからです。

■裁判例定義:プライバシー権とは、私事をみだりに公開されない権利をいう。(※この定義じゃない裁判例もありますが)
■有力学説:プライバシー権とは、自己に関する情報をコントロールする権利をいう。

そもそも、プライバシー権って、自己の意思に基づかずに個人情報を公開された場合に問題となるものだと思うんですよね。。
だからこそ裁判例も「みだりに公開されない権利」と定義付けているわけだし。。
一方で有力学説の立場に立った場合も、微妙だと思います。
もちろん、「自己に関する情報をコントロールする」という内容に、「自分の意志で公開した情報のコントロール」までもを含むのなら、忘れられる権利もプライバシー権の一内容と言えるかもしれません。つまり、プライバシー権の社会権(請求権)的側面をかなり重視するという考え方ですね。


しかし、インターネットを利用するに際して、その利用者は「公開した情報は世界中に拡散し、もはや完全に削除することは不可能である。」ということを承知しているはずです。
そのことが大前提となっているはずです。

したがって、インターネット利用者は以下の4種類に分類できるのだろうと思います。

1. そういったリスクを承知した上で情報公開している方々。
2. そういったリスクを負えないと判断し、単に情報収集だけにするとか、あるいは個人情報を含まない限定的な情報公開だけにするとか、そういった利用方法をとっている方々。
3. そういったリスクを認識出来る能力があるのもかかわらず、認識しておらず、個人情報や犯罪自慢をインターネット上で行う方々。
4. そういったリスクを認識出来る能力がない(or未熟な)方々。例えば小中学生等。この方々については、パターナリズム的観点から保護の対象とすべき場合があり得ます。


また、インターネットというオープンな場所で自らが公開した時点で、当該情報の「秘匿性」は否定されます。
この「秘匿性」という要素は、プライバシー権との関係で大きく影響を与える要素だろうと思われます。


こういったことから、私は、「忘れられる権利」は「プライバシー権」の一内容としては保障されないと考えています。

また、別途憲法13条により「新しい権利」として保障されるか否かも検討すべきでしょうが、これまた私は保障されるものとは考えません。

私なら、「そんなの自己責任でしょ」の一言で終わらせます(*'-'*)。

【プライバシー情報】
    ↓
【とてつもなく重要で、人格的生存に不可欠な情報】
    ↓
【みだりに不特定多数の者がアクセスできる場所において公開すべきではない】


このような、通常の判断能力を有する一般人の理解が出来無い人達は、そもそもインターネット利用を考え直したほうが良いのではないでしょうか。
少なくとも、自己の個人情報に関連する情報をみだりに安易に公開することは避けるべきなのだと思います。限定的な情報公開を心がけるべきでしょう。


やっぱり私なら、「自己責任」の一言で片付けてしまいますね(*'-'*)。
勿論、“自己の判断で公開した情報に関しては”という限定は付きますが。
したがって、上記仮想事例においても、A・B・Cの行為は許容され得る行為だと思います。
(※倫理的・道義的観点からはいろいろ判断が分かれるとは思いますが。。)
一方で、Dの行為は微妙です。。「Xの本名」という情報はXの自由意志に基づいて公開されていた情報とは言えませんからね。。
ただ、「公開された情報をつなぎ合わせることで新たな情報を発見する」という行為を禁止or許容すべきかは考える必要があると思います。
「所属学校・所属サークル・バイト先」といった公開情報から「本名」を特定するという行為を、どう扱っていくか。。。(*'-'*)。。
所属している組織や地位などから、もはや誰であっても1つの情報に行き着くというような場合(ex. ◯◯県出身で△△歳の女性衆議院議員等の場合)には、その[特定行為]は問題ない気がします。逆に、一般人からすれば当該公開情報だけからは依然として1つの情報に行き着くことが出来ないような場合には、[特定行為]によって新たな情報を公開することはアウトのような気がしないでもないです。
なかなかに面白いトピックです。。。


最近、twitter上での犯罪自慢が炎上し、当該twitterユーザーの本名や住所が特定
されるという場面をよく目にします。
こうした場面に遭遇すると、「なんでネット上で公開するのだろう...馬鹿だなぁ...自業自得だろうに...」と思う一方、「本人が公開した情報以外の情報まで特定してそれを公開することがどこまで許されるのか...」という疑問も浮かんできます。



それから、『人間の記憶を消すことは出来ない』という事実を忘れてはいけませんね。
たとえ「忘れられる権利」によって、外形上、情報が消えたとしても、その情報を有する人の記憶そのものを消すことは出来ません。
(もちろん、脳にショックを与えて人為的・作為的に記憶喪失させることが可能なのかもしれませんが。。)
このことも踏まえた上で、この権利の本質は何なのかを考えていく必要があるのではないかと思います。





今日の御飯は「とんかつ」です。
それでは皆さん、おやすみなさい。

2012年3月12日月曜日

「南京大虐殺否定罪」の合憲性



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
中国:「南京大虐殺否定罪」制定働きかけ

名古屋市の河村たかし市長の南京事件を巡る発言を受け、中国の全国人民代表大会(全人代=国会)代表の鄒建平・南京芸術学院教授が「南京大虐殺否定罪」の制定を国に呼びかけるよう全人代に提案したことが分かった。10日付の南京紙、揚子晩報が伝えた。南京事件を否定する発言や行動をした場合に中国国内での処罰を想定している。南京を省都にする江蘇省の全人代省代表団の代表36人が既に同意する署名をしたといい、実際に制定が検討されれば、日中間の新たな火種になる可能性がある。【上海】

毎日新聞 2012年3月10日 18時50分(最終更新 3月11日 8時19分)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


中国は、サルコジ大統領の与党・国民運動連合の議員が中心になって作成し問題となった「アルメニア人虐殺否定処罰法」(=オスマン・トルコ帝国による20世紀初頭のアルメニア人虐殺を否定することを犯罪として罰則を科す法律)を参考にしたのでしょうか。。

もっとも、この「アルメニア人虐殺否定処罰法」、フランスで法律の違憲審査をする憲法会議において「違憲」と判断されています。
《表現の自由を侵害するのでアウト》ということらしいです。

日本で言えば《憲法21条1項に反し違憲である》ということでしょう。

では、中国ではどうなるのでしょう。
中国にはそもそも表現の自由など無いのだからOKなのでしょうか(*'-'*)。


まぁ、中国の方は置いておいて、個人的に気になったのはフランスの方です。
フランスの憲法会議は《立法者(国会)が認定した事実について、立法者が異論を唱える者を罰する法律を制定することは、表現の自由を侵害し違憲と判断したらしいのですが、はて、はてはて。。


国会が『アルメニア人虐殺は存在した』と認定した場合に、『アルメニア人虐殺は存在しなかった』と主張する人を国会が罰することは、アウト。ってことですよね。

これって、国会が認定した事実が【賛否両論の場合】には、すんなり納得出来るのですが、【客観的な事実】である場合には、ちょっと違和感が残るのです。。


1. 問題となっている事実が、研究不足等の理由で未だに客観的な結論が出ておらず、賛否両論状態である場合、反対意見は憲法上保障されるべきです。この反対意見を封殺することは許されません。
ここは勿論賛成です。

2. では、徹底的な研究の結果、客観的な事実が確定している場合にはどうでしょうか。

ふと思ったのは、客観的な事実と異なる主張、すなわち客観的に言って間違っている主張は、“憲法上”保障されるのでしょうか。
例えば、「米国は日本に対して原子爆弾を投下した」という事実は客観的な事実ですが、この客観的事実に反する「米国は原子爆弾を使用していない」という主張は“憲法上”保障されるのでしょうか。
こうした嘘をつく行為は、“憲法上”保障されるものなのでしょうか。

間違ったことを主張すること、嘘をつくことも憲法21条1項の「表現の自由」に含まれるのでしょうか。。


確かに、「表現の自由市場」に任せるべきで、法律で縛るべきではないとは思います。
しかし、だからといって“憲法上”保障すべき表現の自由であるとも言い難いのではないでしょうか。

嘘をつく行為に、憲法で保障すべき価値があるのでしょうか(*'-'*)。

これは差別的言論(差別的表現)にも言えることかもしれません。


※私はこういった表現行為を「法律で規制しろ!」とか「処罰しろ!」と主張しているわけではありません。
こうした表現行為が、『憲法上保障されるものなのかどうか』が気になっただけです。





個人的には、たとえ差別的表現であっても、その表現行為を法律で規制することは危険であると考えています。
何故なら、「差別的表現」の定義があまりに曖昧であり、恣意的な言論封殺が行わてしまう危険があるのではないか、という疑念を全く払拭出来ていないからです。
でもまぁ... かと言ってこうした差別的表現が『憲法上保障される』と言い切ることにも抵抗を感じるのですが。。。(*'-'*)。(*'-'*)。

う〜ん…





それでは皆さん、おやすみなさい。